cinéma et nous~映画批評~

個別の作品の映画批評を中心に記事を書いています。各作品の批評と分析は、その映像の表層にできる限り潜行し、物語と映像が交差するポイントからその映像そのものが突きつける潜勢力としての内的な体系、いわば「その可能性の中心」を見ることを試みています。取り上げた映画のご鑑賞のお友に是非ご一読ください。

2018年シネマベスト10

2018年に公開された映画から選出したベスト10です。

2018年を振り返ってまず取り上げたいのは、それまでインディペンド系の力作~特に5時間を超える大作『ハッピーアワー』の衝撃!~を連発してきた濵口竜介の初の商業映画『寝ても覚めても』だ。映画批評家蓮實重彦をして「向かいあうこともなく二人の男女が並び立つラスト・ショットの途方もない美しさ。しかも、ここには、二十一世紀の世界映画史でもっとも美しいロングショットさえ含まれている。濱口監督の新作とともに、日本映画はその第三の黄金期へと孤独に、だが確実に足を踏み入れる。」と言わしめた、とてつもない傑作だ。このラストショットやロングショットもさることながら、対立し離反していた二人の男女が猫を媒介として再び引き合う玄関口のショットも忘れられない。『レディ・プレイヤー1』は様々なメジャーキャラクターや映画へのレファレンスがあり、それだけでも楽しめるのだが、この映画を貫くファイティング・スピリッツを見事にアクションへと昇華させる、スピルバーグの手腕に改めて敬服した。『きみの鳥はうたえる』も、濵口と並ぶ期待の映画作家三宅唱の初の商業映画だ。前述の蓮實重彦が「上映時間があと七分半短ければ、真の傑作となっただろう。」とコメントしているが、いやいや真の傑作だ(笑)。ラストシーン、柄本佑が最後の数を数えて走り出し、それを受け止めて振り返る石橋静河のクローズアップの素晴らしさを言葉で表現することはもはや不可能だ。

『犬ケ島』はその技術的な凄さとともに、マルティチュードとなって戦う少年と犬たちの勇気に心底痺れさせられた。『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』は20世紀の歴史の検証を行ってきたスピルバーグの一連の作品群に連なり、昨今の文書をめぐる愚劣な政府の対応を想起しながら本当に楽しめる作品だ。『希望のかなた』はこれもまた移民という重いテーマを扱いながら、アキ・カウリスマキの相変わらずのとぼけたクールな笑いを楽しむことができ、最後には希望をも残してくれるロックな映画に仕上がっている。『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』は大好きな映画作家ジェームズ・グレイのそれまでのフッテージとは趣を異にする大作であり、丁寧に描いた未知の世界を堪能できるはずだ。『15時17分、パリ行き』も86歳となったイーストウッドが、映画のベースとなった実話の実際の人物たちが本人を演じるという、ドキュメンタリーとフィクションの枠をかつてない形で超えようとする野心作だ。アクターたちの実人生がこの映画そのものに重ねて生きられることになる。『マイ・プレシャス・リスト』、『ウインド・リバー』はこれからの活躍が期待ができる映画作家たちのデビュー作だ。

 

1.寝ても覚めても濱口竜介/2018)

www.youtube.com22.レディ・プレイヤー1(READY PLAYER ONE スティーヴン・スピルバーグ/2018)

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3.きみの鳥はうたえる三宅唱 /2018)

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 4.犬ヶ島(ISLE OF DOGS ウェス・アンダーソン/2018)

www.youtube.com55555.ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(THE POST スティーヴン・スピルバーグ/2017)

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6.希望のかなた(TOIVON TUOLLA PUOLEN アキ・カウリスマキ /2017)

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7.ロスト・シティZ 失われた黄金都市(THE LOST CITY OF Z ジェームズ・グレイ /2018)

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8.15時17分、パリ行き(THE 15:17 TO PARIS クリント・イーストウッド /2016)

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9.マイ・プレシャス・リスト (CARRIE PILBY スーザン・ジョンソン /2016)

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10.ウインド・リバー(WIND RIVER テイラー・シェリダン /2017)

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2017年シネマベスト10

2017年に公開された映画から選出したベスト10です。

2017年を振り返って言えることは、この年は何と言っても『マリアンヌ』だろう。ロバート・ゼメキスの最高傑作だ。国家の政治的目標である戦争に従属させられる戦争機械であった二人が「戦争ではなく、創造的な逃走線を引く」(ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』)、国家に抗する戦争機械=恋愛機械に生成し、自分の生を生きる過酷な逃走=闘争の記録だ。そして、『ラビング 愛という名前のふたり』。人種による分断を突破する、黒人女性と白人男性の大人の愛の傑作だ。静謐で素晴らしいクローズアップシーンがあるので、絶対に見逃さないでほしい。

散歩する侵略者』『LOGAN/ローガン』『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』『パターソン』『カフェ・ソサエティ』『エルネスト』は私の大好きな映画作家たちの著名が刻印された、必見の作品だ。

ゲット・アウト』はレイシズムへの強烈な批判が織り込まれた不気味で痛快なエンターテインメントの怪作だ。今後の活躍が期待できる新星だ。

『立ち去った女』はフィリピンの鬼才、ラヴ・ディアスのモノクロ映像の大作だ。驚異的なフィックスの長回しを堪能したい。

1.マリアンヌ(ALLIED ロバート・ゼメキス/2016)

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2.ラビング 愛という名前のふたり(Loving ジェフ・ニコルズ/2016)

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3.散歩する侵略者 (BEFORE WE VANISH 黒沢清/2017)

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4.LOGAN/ローガン(LOGAN ジェームズ・マンゴールド/2017)

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5.ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち(MISS PEREGRINE'S HOME FOR PECULIAR CHILDREN ティム・バートン/2016)

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6.ゲット・アウト(GET OUT ジョーダン・ピール/2017)

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7.パターソン(PATERSON ジム・ジャームッシュ/2016) 

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8.カフェ・ソサエティ(CAFE SOCIETY ウディ・アレン/2016) 

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9.立ち去った女(ANG BABAENG HUMAYO/THE WOMAN WHO LEFT ラヴ・ディアス/2016) 

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10.エルネスト(阪本順治/2017)

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【映画】『ゼイリブ』~他にも道があるはずだ~

映画「ゼイリブ」を詳細に分析した批評文です。

自由の実践として行使されるアクションたちがネオリベラリズムの野蛮な現実にどのように対抗していくのかというパースペクティブから詳細に読み解く論稿です。

1.資本の「支配と統治」を射抜くショット

2.歩くこと~階級分裂を喚起するアクション~

3.見ること~階級分裂を知覚するアクション~

4.蜂起は無駄なのか?

見出し画像

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 汽笛とともにオープニングのタイトルバックに浮かび上がる「THEY LIVE」の白いロゴがそのまま鉄橋の落書きとなり、不穏なサウンドとともにキャメラは右から左へとパンしていく。その真逆の方向に画面を横切る貨物列車の陰からネイダ(ロディ・パイパー)があらわれ、あたりに目をやりながら線路を縦断し奥から手前へとゆっくりと歩いてくる。この印象的なオープニングショットは、「THEY LIVE」というエクリチュール(文字)がこの映画の説話論的な構造を支える聖痕として書き込まれたことを示すとともに、歩くこと、見ることというこの映画における特権的なアクションが全て出揃ったマスターショットにもなっていることがわかるだろう。
 バックパックを背負って歩く、プレカリアート(不安定な労働者階級)であるネイダと資本主義の象徴である高層ビル群をローポジションのキャメラによる同一の画面におさめたディープフォーカスのフレーミングは、相補しあう貧富の格差の表象を不気味に提示している。さらにキャメラバックパックを背負ったネイダの後ろ姿からうす暗い空に霞んで聳える高層ビル群へとパンアップした後、空を見上げるネイダのミディアムショットから高層ビル群の仰角ショットへと往還し、ネイダが資本主義というシステムに西部劇におけるストレンジャーさながら侵入していく過程を鮮明に描いていく。
 姿の見えない“THEY”にハッキングされたディストピアを描く『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター、1988)は、70年代末にはじまり、世界中を席捲しつつあったネオリベラリズムの野蛮な現実を同時代性において、いち早く捉えようとした快作であり、ディストピアが地続きになりつつある現在において、その批評性はいささかも衰えていない。
 本稿では、自由の実践として行使されるアクションたちが「歯止めの効かなくなった巨大な資本主義」(ジョン・カーペンター)にどのように対抗していくのかを分析することとしたい。

1.資本の「支配と統治」を射抜くショット
 野宿をしているネイダが見上げる夜空や昼間のキャンプ地の上空の青空を旋回するヘリコプターのショットがたびたび挿入され、キャンプ地にたむろする、社会に取り残されたような人々が不安な世情の噂話をする背後に不気味なプロペラ音が鳴り響いている。双眼鏡で覗いた夜の教会のネイダの主観ショットがパンアップされ、旋回するヘリコプターのショットへと切り替わる。プロペラの爆音が全面化され、パトカーのサイレン音が鳴り響き、これらの爆音が暴力の導火線を点火したように、武装警官がキャンプ地の傍の教会を取り囲む場面へと続いていく。「発煙筒を焚き横並びで住民たちに襲い掛かる武装警官たち」や「住民たちを蹴散らして家を押しつぶしていくシャベルカー」の野蛮な暴力をとらえた短いカットの連鎖において、夜空から地上をライトで照らし、爆音をたてて旋回するヘリコプターのショットが度々カットインされる。この旋回するヘリコプターは姿をみせない“THEY”の形象にほかならない。取り残された人々である「逃げ惑う住民たち」がフォーカスされることはなく、個々の顔は画面から排除されたままである。
 共有地であるキャンプ地が踏みつぶされていくこのシークエンスは、資本主義の起源である「資本の本源的蓄積」を想起させるものだ。「資本の本源的蓄積」とは共有地(コモンウェルス)を囲い込み、その生活を破壊して「人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される」(カール・マルクス資本論』)ことである。つまり、資本主義の生成に伴う収奪の歴史を再現しているのだ。また、この資本主義社会が武装警官という物理的な強制力としての暴力によって守られていることも明らかにしている。
 一方、「小窓から見えるテレビを称賛する女性が映ったテレビ画面」VS「それを見ながら野宿するネイダ」、「ファッションショーのテレビ画面」VS「その声が流れる中でキャンプ地の残骸をひろい集める人々」といった、無害な放送を垂れ流すテレビ画面VS貧困層という構図のクロスショットが何度も反復されている。階級分裂の隠蔽をアイロニカルに召喚するショットが多用されているのだ。それは、寡頭支配を告発する海賊放送に「頭が痛い」とキャンプ地の住民たちの気分が悪くなる場面にも認めることができる。無害なテレビ放送は階級分裂という現実の裂け目から貧困層の意識を逸らさせ、知覚を剥奪し自発的な服従を強いているのだ。
 ネイダが武装警官たちに襲撃された教会に入り、破壊された海賊放送局の残骸と寡頭支配を告発するスローガン「THEY LIVE,WE SLEEP」が消された壁を確認するシーンは、知覚を剥奪し自発的な服従を強いるテレビ放送が武装警官の暴力によって保証されていることの必然性を端的に示す場面である。
 そして、ネイダのサングラスをとおしたモノクロの主観ショットに映しだされる、「命令に従え」「結婚し、出産せよ」「消費しろ」「考えるな」「8時間働け」「8時間眠れ」「8時間遊べ」「買え」「テレビを見ろ」「眠っていろ」「お上に逆らうな」といった街にあふれる広告媒体に潜むサブリミナルメッセージは「享楽(エンジョイ)せよ!」という超自我の命令であり、人々の享楽を手懐けていく狡猾な手段でもある。人々にもっとエンジョイすること、永遠にエンジョイ (消費)しつづけること、つまりは依存症的な「享楽(エンジョイ)」を要請するのだ。貧者たちは知覚することの機能を剥ぎ取られ、「まがい物としての剰余享楽」(ジャック・ラカン)である大量消費向け商品を際限なく追い求めさせられることになる。
 こうして、キャメラは「武装警官、テレビ放送、広告媒体」という物理的な装置が三位一体となって、グロテスクな資本主義社会の「支配と統治」のホイールを回転させていることを徹底的に暴いていくのだ。 ここにおいて、姿を見せない空虚な入れ物である“THEY”とは資本のメタファーでもあり、映画のファーストショットに浮かびあがる「THEY LIVE」とは資本が生き続ける=無限の自己増殖を続けることの喩にもなっていることがわかるだろう。

2.歩くこと~階級分裂を喚起するアクション~
 路上には雨をしのぐためにダンボールを頭にのせた、社会からはじき出されたように仕事にあぶれた人々がたむろしている中を画面の奥からネイダがあらわれ、ゆっくりと歩いてくる。職業斡旋所でやる気のない事務員に働き口のないことを冷たく告げられ、公園の中を途方に暮れたように、画面の奥から歩いてくるネイダ。いずれも、シャロウフォーカスのキャメラで捉えられたそのショットはプレカリアート(不安定な労働者階級)の孤高性も際立たせる。
 このように、ネイダは冒頭のシークエンスでもみられたようにひたすら「歩くこと」を強いられている。それは、バックパックを背負って自らの労働力を売り歩かざるを得ない「流動的下層労働者」であることとも密接に関係しているのだろう。ネイダの存在は資本主義にとって、そのシステムを支える剰余価値を生み出す労働力を売り歩く者であるとともに、そこから剰余価値を搾取しているという不都合な現実を露わにする「喉にひっかかった小骨」のような存在である。システムになくてはならないものであると同時にその透明な完成を妨げるような存在。映画のファーストショットに浮かびあがる「THEY LIVE」を再び取り上げてみよう。それは、この映画に書き込まれた、トラウマ的なエクリチュール(文字)であり、鉄橋の落書きとして消されることなく残る、そのシステムの外部性の痕跡、残余である。そして、この外部性の痕跡は、キャメラが「THEY LIVE」の落書きのある鉄橋からネイダへと切れ目なくパンすることにより、その身体へと引き継がれ、ストレンジャーである彼がシステムの中を歩きまわることによって、そのあちこちに綻びを生じさせることになるのだ。
 ネイダがフランク(キース・デイヴィッド)に連れてこられた様々な出自の人々が暮らす、キャンプ地に隣接する教会とその背後に浮かぶ資本のファンタジーとしての高層ビル群を同時にとらえたディープフォーカスのショットはネイダがキャンプ地を歩きまわるアクションによって、何度も執拗に挿入され、資本主義がもたらす階級分裂を画面の同時性においてコントラストに描き出す役割を果している。
 それはまた、相似した構造を有する画面の反復においてもみられるものだ。冒頭の仕事道具の入ったバックパックを背負ったネイダが雑草の生えた道なき道を歩いていくシーンは、ホリー(メグ・フォスター)に窓から落とされ、バックパック=仕事道具=生産手段さえ持たない「完全に自由な労働者」となったネイダが橋をとぼとぼと歩いていくシーンとして、いずれも高層ビル群を背景にディープフォーカスでとらえられたショットによって反復されている。また、ネイダが動物やレジャーに興じる若者たちを映す店頭のテレビモニター群を凝視する黒人の若者の後ろを画面の奥から歩いて通り過ぎるシーンは、「完全に自由な労働者」となったネイダ自身が犯罪者として画面に映しだされた店頭のテレビモニター群の前を画面の奥から歩いて通り過ぎるシーンとして反復されている。それらは、階級分裂という現実の裂け目を増幅させるショットとして回帰しているといえるだろう。
 以上のように、この映画においては歩くというアクションが焦点深度を駆使したキャメラワークにより資本主義の裂け目である階級分裂を明るみにするショットを生み出しているのだ。歩くことはその後も、ネイダがサングラスを付けて路上を、銃を持ってテレビ局内を歩くことによって、システムを攪乱し内破していくモメントとなるだろう。

3.見ること~階級分裂を知覚するアクション~
 「我々の目から真実を隠した」「誕生から死までを管理する連中がいる」と演説する盲目の宣教師の存在は、「見ること」がこの映画にとって重要なアクションであることを示唆している。
 冒頭の空を見上げるネイダのミディアムショットと高層ビル群の仰角ショットのカットバックは、その後も他人の観ているテレビを見ること、夜空を旋回するヘリコプターを見上げること、教会に潜入して内部を見ること、盲目の宣教師とレジスタンのやりとりを立ち見すること、双眼鏡で教会を覗きみること、武装警官がキャンプ地を蹂躙する様子を眺めることといった、「見ること」の身ぶりとして執拗に繰り返される。
 しかし、繰り返される「見ること」の身ぶりにも関わらず、ぼんやりと浮かぶ高層ビル群を背景に、貧富の差による不公平や過酷な現実を嘆くフランクをなだめて、「もっと気楽に生きろ。俺はアメリカを信じる」と言うネイダをとらえたシャロウフォーカスのショットは、ネイダ自らが資本主義というシステムのストレンジャーであることに無自覚なままであり、何も見えていないこと、知覚は剥ぎ取られたままであることを映像のレベルで示しているものだ。逆に教会に忍び込んだネイダの顔をまさぐり、手の感触から労働者であることを識別する盲目の宣教師は、目が見えないにも関わらず、資本主義社会を動かす「支配と統治」の実態を見抜くことができるのだ。
 忍び込んだ教会で製造中のサングラスをたまたま見つけたものの、教会の壁に書かれた「THEY LIVE,WE SLEEP」の意味さえ理解できなかったネイダは「自分の本姓に適い自分と組み合わさるものとなるような相のもとでそれらと出会えるように努力すること」(ジル・ドゥルーズスピノザ 実践の哲学』)、つまり、サングラスと出会い直す必要があったのだ。
 サングラスを手にして路上を歩くネイダのフルショットが、サングラスをかけるアクションによって路面を映したモノクロの主観ショットに代わり、サングラスをかけて/はずして見るネイダのクローズアップにカラー画面の広告媒体とモノクロ画面のサブリミナルメッセージの文字という彼の主観ショットが交互に挿入されていく。続く、人間に擬態した“THEY”と遭遇するシーンにおいても、サングラスをかけて/はずして見るネイダのクローズアップにカラー画面の人間の顔、モノクロ画面の面の皮を剥ぎ取られたような顔というネイダの主観ショットとのカットバックが繰り返される。さらに、サングラスをかけ、街の光景を見ながら歩いていくネイダのショットに多くの“THEY”が普通に生活する様子を映した、彼のモノクロの主観ショットが交互にカットインされる。
 このサングラスとの出会い直しのシークエンスは、クローズアップによってトラウマ的な効果を生み出しており、キャメラは「見ること」を二重化し、街にあふれる広告媒体や人間に擬態した“THEY”を「イデオロギー(虚偽)」として知覚するアクションを映像の次元で的確にとらえている。まさに認識論的切断によって見えなかったものを白昼の光の中で見出す様を描いた圧巻のモンタージュであろう。
 また、サングラスをかけるアクションは、システム内の見る者(傍観者)でしかなかったネイダを、システムを内破していく見られる者(行動者)へと変貌させるアクションともなっている。それは、ネイダが人間に擬態した“THEY”とぶつかるという物理的な接触以降、モノクロの“THEY”とネイダとのカットバックが多用されていることからも明らかだ。この見る者(傍観者)から見られる者(行動者)への変貌とは、知の機能を剥ぎ取られていた者から知覚する者への変貌でもあり、資本主義の裂け目である階級分裂を知覚することが、自由の実践としての次へのアクションを強いるのだ。
 サングラスをめぐっては、遠心力と求心力という異なるベクトルを持った2つの肉体的なアクションが惹き起こされていることにも着目しておこう。
一つはネイダとTV局に勤務するホリー(メグ・フォスター) の間に起こるアクションである。ホリー(メグ・フォスター)にサングラスを促したネイダは、「あなたのサングラスで見ても、自分で見たことにならない」と拒否され、続く俯瞰ショットにおいて、くるりと体を時計回りに回転させて遠心力を働かせた彼女の右腕に後頭部を殴られ、体ごと窓ガラスを突き破って落とされることになる。警察に電話するホリーのカットから、その視線の先につなぐように床に落ちたサングラスのショットが挿入される。ホリーはネイダと対照的にサングラスと出会い損ねるのだ。このアクションが遠心力となり、映画のラストシーンのホリーの行動を規定しているとみなすこともできよう。
 もう一つはネイダとフランクの間に起こるアクションである。サングラスをかける/かけないことを賭してお互いの全身の肉体を駆使した5分半に及ぶ格闘の末、ネイダがフランクにサングラスを無理やりかけさせる、迫真のシークエンスだ。この時間の長さは「見ること」を二重化し、「イデオロギー(虚偽)」を知覚するためにどうしても必要なハードルだったのだ。グロッキー状態で横たわるフランクがネイダに無理やりサングラスをつけさせられ、頭を抱きかかえられて資本主義のグロテスクな現実を見せられることによって、その構造のなかでの自らの位置をトラウマ的に知ることができるのだ。また、このぶつかり合うアクションが作り出した求心力がネイダとフランクや他のレジスタンスたちとの新たなアソシエイト(結びつき)を始めることを可能にもしているはずだ。

4.蜂起は無駄なのか?
 人民は蜂起する。それは一つの事実だ。
             ミッシェル・フーコー『蜂起は無駄なのか?』

 格闘の後、ボロボロになったネイダとフランクがたどり着いたホテルの部屋で闘争戦略の不可能性を激論する切り返しショットは、二重に知覚することによって明らかになった“THEY”にハッキングされたディストピアの世界に対して為す術などいっさいないという「耐え難さ」をそれとして認識する重要なシークエンスとなっている。一方、フランクが所有していた腕時計が偶然にも地下への脱出口を作り出すというシーンは、にっちもさっちもいかない状況におかれることによって、この「耐え難さ」に強いられて逃走線が引かれ得ることを証明している。「脱出と逃亡する手段なしにいかなる権力関係も存在しえない」(ミッシェル・フーコー『主体と権力』)ということだ。
 レジスタンスの秘密会合が武装警察によって圧殺され、追い込まれた路地での銃撃戦における、「ネイダとフランクの主観ショットであるモノクロの面の皮を剥ぎ取られたような顔」→「機関銃を乱射するネイダとフランク」→「客観的ショットであるカラー画面の人間の顔」のカットバックサイクルにも注目しておきたい。サングラスからコンタクトへと知覚のためのデバイスが進化して以降、サングラスをかけて/はずすというアクションがもたらす主観ショットにおける「見ること」の二重化は後退したが、「イデオロギー(虚偽)」を知覚するモノクロの主観ショットの持続性を担保するために同アングルのカラーの客観的ショットが導入されているのだ。
 ネイダとフランクはテレビ局の地下基地に逃げ込み、“THEY”との銃撃戦を繰り広げながら、人間を支配する信号の発信機を破壊することを目指して屋上へと向かう。機関銃を携えてテレビ局の廊下を歩いていくフランクとネイダはまさに、システムを踏破していくアウトローだ。自由の実践としてのアクションが全面的に展開し、細長い廊下で区切られたテレビ局の条理空間を平滑空間に変容させていくシークエンスをキャメラは滑らかにとらえてみせる。このテレビ局内での銃撃戦においては、“THEY”をとらえるショットはモノクロの主観ショットではなく、カラーの客観的ショットがほとんどの画面を支配することになるため、映画の観客には人間と“THEY”との区別をつけることはできず、フランクとネイダのアクションによって見分けるほかはない。われわれも彼らとともに知覚することが求められているのだ。
 ネオリベラリズムを凝縮した、マーガレット・サッチャーのスローガン「この道しかない」が抵抗方法をめぐるレジスタンスたちの議論の中での「他に選ぶ道はないんだ」というネガティブな言葉として反響していた。しかし、その言葉は「歩くこと」/「見ること」というアクションを経て、屋上へと向かうネイダの「他にも道があるはずだ」というポジティブな言葉として再帰していることを見逃さないようにしよう。
 また、ネイダはある種の消え去る媒介者でもあったといえよう。発信機を破壊することによって、カラーの画面に面の皮を剥ぎ取られたような顔の“THEY”が現れ、人々の「見ること」を二重化させ、「イデオロギー(虚偽)」を知覚させることに成功する。一方で、ネイダはそれと引き換えに消え去る=死ぬことになるのだが、中指を立てる最後のアクションは来るべき「一つの民衆=人民(ピープル)を創り出すこと」(ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』)を指向しているのではないだろうか。蜂起はもちろん無駄ではなかったのだ。
 ネイダとフランクが知覚を二重化することによって、自らの生き方=アクションそのものを自由の実践として行使し、「歯止めの効かなくなった巨大な資本主義」が暴走する世界を勇気を持って横断しようとした、映画『ゼイリブ』とは、現実のアソシエイトした諸個人の資本への対抗運動の一環にほかならないのだ。
                           

クレジット

題名:ゼイリブ
原題名:THEY LIVE
監督:ジョン・カーペンター
脚本:フランク・アーミテイジ(ジョン・カーペンター
編集:ギブ・ジャフェ、フランク・E・ヒメネス
出演:ロディ・パイパー、メグ・フォスター、キース・デヴィッド、ジョージ・“バック”・フラワー、ピーター・ジェイソン、レイモン・サン・ジャック、ジェイソン・ロバーズIII世
プロデューサー:ラリー・フランコ
エグゼクティブプロデューサー:シェップ・ゴードン、アンドレ・ブレイ
撮影:ゲイリー・B・キッブ
美術:ウイリアム・J・ダレル・ジュニア、ダニエル・A・ロミノ
音楽:ジョン・カーペンターアラン・ハワース
配給:東宝東和
   合同会社是空(製作30周年記念HDリマスター版)
(1988 / アメリカ / 96分)

 

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【映画ベスト】2016年新作映画ベスト10

2016年に公開された映画から選出したベスト10です。

2016年を振り返って言えることは、この年は『キャロル』の年だったということだ。ケイトとルーニーが織り成す視線、表情、手のメロドラマがあまりにも艶かしく、ただただ圧倒される!そして、ラストの完璧な終わり方。間違いなく群を抜いた傑作だ。

ハドソン川の奇跡』『ザ・ウォーク』『白鯨との闘い』『ブリッジ・オブ・スパイ』『クリーピー 偽りの隣人』は私の大好きな巨匠たちのエンターテイメントに徹した素晴らしい作品たちだ。

『山河ノスタルジア』は『世界』以降久しぶりに感嘆させられた、ジャ・ジャンクーの作品であり、今年公開された、新作『帰れない二人』と一緒に観ることで、さらに楽しめるはずだ。

『ジョキング渡り鳥』『SHARING』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』は、いずれも手作り感のあるインディペンデントな雰囲気を漂わせながら、新作がでれば絶対見逃すことのできない映画作家たちの力作だ。特に『ジョキング渡り鳥』は映画の諸条件をとらえることで、その枠組みを超えようとする野心的な作品であり、『SHARING』は3.11以降に映画を撮ることの必然性を再考させてくれる作品であり、いずれも必見だ。

 

 

1.キャロル(Carol トッド・ヘインズ/2015)

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2.ハドソン川の奇跡(Sully クリント・イーストウッド/2016)

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3.山河ノスタルジア(山河故人/Mountains May Depart ジャ・ジャンクー/2015)

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4.ザ・ウォーク(The Walk ロバート・ゼメキス/2015)

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5.白鯨との闘い(In the Heart of the Sea ロン・ハワード/2015)

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6.クリーピー 偽りの隣人(黒沢清/2016)

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7.ジョキング渡り鳥(鈴木卓爾/2015)

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8.ヤング・アダルト・ニューヨーク(While We're Young ノア・バームバック/2015)

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9.ブリッジ・オブ・スパイ(Bridge of Spies スティーヴン・スピルバーグ/2015)

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10.SHARING(SHARING 篠崎誠/2014)

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【映画】『マリアンヌ』~「同盟⇄縁組」の行方~

映画「マリアンヌ」を詳細に分析した批評文で、「映画評論大賞2019」に応募し、最終選考に残った論文です。

「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象と原題名(ALLIED)である「同盟=縁組」というトレードオフの関係を有している二つの主題を手がかりに、この極めて端正な傑作について詳細に読み解く論稿です。

 

1.差異と反復~折り目正しき構造~

2.「男と女と自動車」のアレンジメント

3.切り返しの倫理

4.「同盟⇄縁組」の行方

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  バーのドアが開かれ、ナチスの将校と入れ替わりに、帽子を脱ぎながら入って来るブラッド・ピットを正面から背後へとキャメラは流れるように追い、マリオン・コティヤールを探して、ホールの2階に目を遣る主観ショットへとつなげる。このワンショットから始まる偽装夫婦としての二人のファーストコンタクトにおいて、この映画の二つの主題を認めることができる。
 談笑する3人の男女が左右に離れて、舞台の幕が開けるように現れるマリオン・コティヤールの肌を露わにした背中。仮の妻となるであろう女性を見とめ、椅子にかけたハチドリの刺繍のあるショールから背中へと視線を動かすブラッド・ピットの主観ショット。その視線に気づいてゆっくりと振り返るマリオン・コティヤール。お互いを確かめ探り合うような表情から安堵した確信の笑みへと変わる瞬間を的確に捉えた二人の切り返しショットは、ひとまずはこの映画の主題と呼んでも間違いではなかろう「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象とともに、原題名(ALLIED)である「同盟=縁組」という主題をも喚起させる。ここでいう「同盟=縁組」とは、この映画の時代背景となる第二次世界大戦中の国家だけでなく、個人の関係をも含むものである。この二つの主題は説話論的には「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象がせり上がるにつれ、「同盟=縁組」に裂け目が生じるというトレードオフの関係を有している。
 本稿は以上二つの主題を手がかりに、この極めて端正な傑作『マリアンヌ(ALLIED)』(ロバート・ゼメキス、2016)の分析を試みたい。

1.差異と反復~折り目正しき構造~
 ロンドンに舞台を移したファーストショットがショーウィンドウの粉々になったガラスの残骸を踏みしめるハイヒールのローアングルショットから始まることはその後の展開を予兆させるものであろう。
 この映画の構成を俯瞰的にながめてみると上映時間のちょうど中盤、Vセクションというイギリスの諜報部門に呼ばれ、ブラッド・ピットが地下に続く螺旋階段を降りて長い廊下を歩いていくシークエンスが文字通りの折り返し時点となっていることがわかる。
 明るい陽射しの差す地上の部屋から日の当たらない地下に続く何重もの螺旋階段を降りていくブラッド・ピットキャメラは正面から背後へと追い、底の見えない暗闇を俯瞰ショットで映しだす。地下に降りたブラッド・ピットは暗い影を帯びて現れ、キャメラは長い廊下を歩く後ろ姿をゆっくりとトラックバックしながら、奥行のあるロングショットでとらえてみせる。しかしながら、キャメラは地下室へと入るブラッド・ピットをその背後から追うばかりであり、建物の中に入る人物を正面から迎えて背後へと回りこむ、それまで何度もみられた流れるようなキャメラワークはそれ以降、影を潜めることになる。
 この映画の前半の流麗なキャメラワークが饒舌、砂漠を照らす太陽といった華やかな明るさを表象しているのとは対照的に、後半の細かなカット割りは沈黙、厚い曇に覆われた空や降りしきる雨といったどんよりとした暗さを表象している。
 その対照性の強度はまた、ディテールの差異と反復の積み重ねにより強化されている。偽装夫婦である二人の饒舌な車内と夫婦となった二人の無言の車内、機関銃を乱射するドイツ大使の暗殺と拳銃の閃光と銃声だけが響く宝石商の暗殺、空襲警報をやり過ごす華やかな幸福感に包まれた結婚パーティーと墜落する戦闘機に見舞われ疑念が渦巻く中でのホームパーティーマリオン・コティヤールを抱きかかえて結婚パーティーのパブへ入るブラッド・ピットとパブのガラス戸を右ひじで突き破り、躊躇するマリオン・コティヤールの腕をとって促すブラッド・ピット等々。
 とりわけ、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象にとって決定的なのは、ブラッド・ピットが窓から事務室を一望できる開放的な部屋で直属の上官から「マリアンヌ・ボセジュール」のロンドンへの入国許可を告げられるシーンと、石壁に囲まれた暗い地下室の中でイギリスの諜報部の上官から「マリアンヌ・ボセジュール」のドイツ諜報員疑惑を言い渡されるシーンであろう。この問い=表象への応答をめぐる差異と反復が、「同盟=縁組」というもう一つの主題を動揺させ、折り目正しい構造を有する『マリアンヌ(ALLIED)』を駆動させていくのだ。

2.「男と女と自動車」のアレンジメント
 映画の冒頭でブラッド・ピットが兵士から諜報員へと偽装するのは、砂埃を巻き上げて走る自動車の中であるように、この映画においては、自動車が説話論的に重要な役割を担っている。「男と女と自動車とがあれば、映画ができる」(ジャン=リュック・ゴダール『光をめぐって 映画インタビュー集』)のだ。ここで、本論を展開するうえでの補助線として戦争機械(ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』)という概念を導入してみよう。「戦争機械は一様に定義されない」(『千のプラトー』)ものの、さしあたり本稿で使用する「機械」とは「連結し、創造する過剰な力能の運動」とでも呼んでおこう。結論を先取りしていえば、「男と女と自動車」という欲望のアレンジメントがこの映画における戦争機械を作動させるのだ。
 ドイツ大使を暗殺する当日、朝日に照らされる砂漠の中で語らいあった二人が自動車に乗り込み、エンジンをかけようとしたブラッド・ピットの右手に添えられるマリオン・コティヤールの右手のクローズアップと二人の切り返しショット。この自動車の中での一連のショットが「男と女と自動車」という欲望のアレンジメントを構成し、国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」を恋愛機械としての二人の「縁組」へとスライドさせ、欲望のフローを作り出すスタートアップショットとなっている。続くシーンにおいて、キャメラは互いの顔を両手で抱き、激しく求めあう二人をマルチアングルでとらえ、流れ出す欲望のフローに呼応するかのように車外に吹きすさぶ砂嵐も激しさを加速させ、轟音とともにわたしたちの視界から二人は限りなく閉ざされていく。
 また、ドイツ大使を暗殺して疾走する「男と女と自動車」のアレンジメントが「We're alive, Max. We're both alive.(生きているわ、二人とも生きている)」と高揚したマリオン・コティヤールの髪をなびかせる風と共に、欲望のフローを駆け抜けさせ、恋愛機械が作動する逃走線の創造にとって決定的な切り返しショットへとつながっていく。
 一方で、この映画において自動車は保護装置としても機能している。
マリオン・コティヤールが互いを紹介しあう自動車の中で「And I like them. I keep the emotions real. (私も彼らが好き、感情は偽らないの)」と高らかに言い放ち、子供を産む直前にブラッド・ピットの顔を両手で抱えながら「This is really me, as I am before God. (これが私、神に誓って偽りのない私)」と偽者であることを否認する行為は偽者であることを認めていることの証左であろう。常に/既に偽者であることを強いられるマリオン・コティヤールにとっては自動車の中こそ、アパートの屋上、街のカフェやバーで晒される匿名の視線から身を守る装置、端的に言えば、外界から偽装を保護する装置なのだ。
 たとえば、ふり続く雨音だけが聞こえ、不安気に辺りを見渡しながら、明け放たれたドアのフレーム越しにブラッド・ピットが入った宝石商の扉を無言で見つめるマリオン・コティヤールの主観ショットや扉越しに鳴り響く銃声と閃光に驚愕する彼女の切り返しショットは保護装置としての自動車がその機能の一部を放棄していることを明示しているシーンであろう。
 クライマックスの直前、ブラッド・ピットが何度も戦闘機のエンジンをかけようとしては挫折する音だけが鳴り響く中での、車内のマリオン・コティヤールの切り返しからの主観ショットとクローズアップのモンタージュ軍用車とプロペラが歪な音を立てて接触するショットへの彼女のバストアップの挿入といった巧みな編集処理が視線のアクションを作り出し、車内を張り詰めたサスペンス空間へと変容させていく。それでもなお、赤ん坊を静かに抱きしめ座席にそっと寝かせる行為は保護装置としての自動車への彼女の変わらぬ信頼の証でもあろう。フードを深くかぶるマリオン・コティヤールは「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象に立ち向かうべく、すべての覚悟を決めた表情を湛え、自動車の扉を開けて(保護装置を解除して)、外界へと自ら踏み出していく。

3.切り返しの倫理
 ブラッド・ピットマリオン・コティヤールが初めて出会うシーンの繊細な息づかいは既述のとおりであるが、ドイツ大使を暗殺し機関銃を乱射する中、マリオン・コティヤールが友人のドイツ高官夫人を認め、銃を真っ直ぐ構えたまま見つめる正面からの切り返しショットも「And I like them. I keep the emotions real. (私も彼らが好き、感情は偽らないの)」という言葉を裏書きしている印象的なシーンだ。
 このように、この映画では様々な場面で切り返しショットが多用されている。「愛することは、本質的に、愛されることである」(ジャック・ラカンセミネール ⅩⅠ』)という定義に従うならば、とりわけ、この映画におけるブラッド・ピットマリオン・コティヤールの切り返しショットとは対峙して見つめあう二人が互いの愛を確かめるために表出させる、顔面の刹那的なアクションを捕捉しようとする倫理的な試みであろう。それは、トレードオフの関係にある二つの主題をこの映画が引き受けたことがもたらす倫理性とも密接な関連があるはずだ。
さらに順を追ってみていこう。
 二人が初めて出会う切り返しショットに続く抱擁シーンは国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」の成立を示す身振りとなる。したがって、互いの本名を明かして紹介しあう、初めて同乗した車内での斜め後方からの切り返しにおいては、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象が立てられるスペースはいまだに生じていない。なぜなら、この問い=表象とは、国家が戦争機械をその内部に回収しようとする呼びかけにほかならないからだ。
 この問い=表象が初めて侵入するのは、ドイツ大使を暗殺して逃走する自動車の中で求婚され(「縁組」を申し込まれ)、疾走する車窓を背景に髪を右頬になびかせながら、無言で見つめるマリオン・コティヤールの半開きの口元の切り返しショットにおいてである。そして同時に、この半開きのスペースが恋愛機械を作動させる逃走線に向かって開かれていることも確認できるだろう。
 結婚パーティーでの周囲の饒舌な会話とは対照的に無言で口元に笑みを湛えながら互いの表情を確かめ合う二人の正面からの切り返しショットは、国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」が恋愛機械としての二人の「縁組」に等式で結ばれる「同盟=縁組」を架橋するとともに、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象を遠くへと押しやるショットでもあろう。
 この問い=表象が前景化するのは、映画の折り返し時点以降であるが、「同盟=縁組」の動揺も、家の中を動き回るマリオン・コティヤールと寝室で動かないブラッド・ピットをスプリットスクリーンのようにドアのフレームで分割してワンショットにおさめたシーンに端的に示されている。それは待ち合わせたパブでの、饒舌で明るいマリオン・コティヤールとは対照的に右頬が影を帯び、眉間に皺を寄せて微かに首を振ることだけしかできないブラッド・ピットのズームアップの切り返しにおいて確かめることができる。
「同盟=縁組」の動揺によるズレは、ホームパーティーのダンスでの無言の切り返しの後、マリオン・コティヤールがさっと手を離して去っていく後ろ姿からブラッド・ピットのアップへと繋げるシーンにおいて二人の間の無意識に刻印されたことを認めることができる。さらに、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象が二人の間にせりあがってくる様子も、ブラッド・ピットが最後の調査に出発する夜に二人が交わすキスシーンの後、無言で見つめるマリオン・コティヤールの切り返しショットにおいて目撃できるであろう。
 最後の調査から自宅に帰ってきたブラッド・ピットのダイニングテーブルの座席ポジションに注目してみよう。それまでの自宅での食事シーンにおいては玄関を背に家の奥に向かうポジションであったのが、この場面での階段から降りてゆっくりと近づくマリオン・コティヤールとの切り返しショットにおいては、疲れ切った表情で煙草を吸いながら反対側の椅子から見下ろすように対座しており、「同盟=縁組」における二人のポジションにも何らかの変化が生じていることがわかる。そして、その直前にマリオン・コティヤールが寝室のカーテンを開けて目を遣るベッドシーツの一人寝の跡を映す主観ショットも、物語前半の多幸感に包まれたベッドで寝そべる二人の切り返しショットとの対照性を形成し、このポジションの変化を暗示している。
 「マリアンヌ・ボセジュール」であることの証のため、パブで「ラ・マルセイエーズ」のピアノ演奏を強要されたマリオン・コティヤールが逆光に立つブラッド・ピットの仰角のアングルショットとの切り返しにおいて、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象を封印するように両手で鍵盤の蓋をそっと閉める場面は、「同盟=縁組」を「同盟⇄縁組」へと更新させ、自分の生を生きるための逃走線を引く重要なシークエンスだ。偽装夫婦としての二人のファーストコンタクトにおいて、マリオン・コティヤールが飛び跳ねるようにブラッド・ピットに覆いかぶさる抱擁シーンが「同盟=縁組 」の身振りに過ぎないとすれば、このシークエンスに続く二人の切り返しの後、ブラッド・ピットが殴りかかるようにマリオン・コティヤールの顔を抱き寄せる抱擁シーンにおいては「同盟=縁組 」が互いの生身が賭けられた、自分の生を生きる個人の間の「同盟⇄縁組」へと命がけの飛躍を遂げていることがわかるだろう。この「同盟⇄縁組」を水平に展開してみると「同盟→縁組→同盟‘」、つまり、国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」が恋愛機械としての二人の「縁組」を経て、自分の生を生きる戦争機械=恋愛機械としての個人の間の「同盟‘」となる軌跡をなぞることができるはずだ。ここで「国家の理想とは、ひとつになること。しかし、個人の夢は、ふたりでいること。」(ジャン=リュック・ゴダール『新ドイツ零年』/『ゴダール・ソシアリスム』における引用)という言葉を想起するならば、「国家の理想とは、ひとつになること」が「同盟」、「個人の夢は、ふたりでいること」が「同盟‘」にそれぞれ正確に照応している。そして、「同盟→同盟‘」の差額にこそ、わたしたちの心を揺さぶる、この映画の剰余価値あるいはその可能性の中心が賭けられているといっても過言ではないだろう。
 降りしきる雨の中、「国家装置の規律にしたがう軍事機関にしか過ぎなくなるか、それとも、自分自身に攻撃を向け、孤独な一対の男女の自殺機械になってしまうか、という二者択一」(『千のプラトー』)を迫られたマリオン・コティヤールブラッド・ピットとの最後の切り返し。くるりと背をむけてフレームアウトし、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象そのものの足場が崩落するように、銃声とともに横倒しに崩れるマリオン・コティヤールをとらえたシーンは、国家に抗する逃走線を切り開く、この上もなくせつないロングショットとして決して忘れることができないであろう。

4.「同盟⇄縁組」の行方
 それでは、「同盟⇄縁組」はどうなったのであろうか。写真が出来事を記録する媒体だとすると、この映画においても「同盟⇄縁組」の行方を記録する重要な役割を担っている。あるいは写真を辿ることによって「同盟⇄縁組」の行方を確認することができるともいえよう。
 不意をつくように、幸せな笑みに満ちた腕組みをした二人のモノクロのスナップショットがカメラのシャッター音とともに連続して流れ、続くカラー画面に戻ったところで、それが結婚式の記念撮影であり、名実ともに「同盟=縁組 」が成立したことをすぐさま理解できる。
 ブラッド・ピットが「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象に答えるための調査を「同盟=縁組」の証である二人の腕組み写真を二つ折りにするシーンから始めたこと、マリオン・コティヤールの写真だけを無造作に引きちぎり、手配写真のように変容させたことは、自足的な関係にあった「同盟=縁組」に折り目=裂け目が生じ、破ること=分裂へと事態が向かっていることを鮮明にしている。
 また、この華やかなマリオン・コティヤールの写真が「戦争機械が国家に所有されればされるほど、戦争は惨たらしいものになる。そして特に国家装置は、不具や死さえも、あらかじめ存在させる」(『千のプラトー』)こと、すなわち、戦争の陰惨さをわたしたちに照射してくれるのだ。ブラッド・ピットがこの写真を向ける相手は、初めての戦線で撃墜される若い兵士、あるいは片目を撃ち抜かれた盲目の元兵士、アルコールに溺れ牢獄に監禁された隻腕の兵士たちであるからだ。
 事態の全てを引き受ける覚悟を決めて書かれたマリオン・コティヤールの手紙が本人のナレーションによって語られる中、画面いっぱいに広がる、メディシン・ハットと思われる牧場の草原で肩を寄せて歩くブラッド・ピットと成長した娘のロングショットから部屋の中に立て掛けられた写真のアップショットへとキャメラは移動していく。そこに写されたラストショットは、「同盟=縁組」が破ること=分裂を止揚して「同盟⇄縁組」として再帰したことを告げる、破られたはずの二人の腕組み写真であり、その写真に重ねるように、マリオン・コティヤールによる「マリアンヌ・ヴァダン」という声=署名が「マリアンヌとは何者か」との問い=表象への応答としてなされている。「マリアンヌ・ボセジュール」が横領可能な名前であったとすれば、「マリアンヌ・ヴァダン」とは、国家が戦争機械をその内部に回収しようとする呼びかけを無効にする、入れ替え不可能な固有名にほかならない。
 そして、ここにおいて、それまで積み重ねられてきた差異と反復が反転していることもわかるだろう。一面に広がる小高い緑の丘へと続く大草原の中で娘と肩を組んで前へと歩いていくブラッド・ピットの後ろ姿を奥行のあるトラックバックでとらえたロングショットは「ふたりでいること」という個人の夢を未来へと受け渡しつつ、オープニングのロングショットがとらえた画面を横切って砂漠を歩くブラッド・ピットの孤高性をも召喚し、わたしたちがそれまで共有していたはずの地下室へと降りていくシークエンス(この映画の折り返し地点)以前/以後のプロットのイメージを反転させているのだ。
 このラストショットにおいて、わたしたちは、決して両立できないはずの二つの主題が見事に交差する奇跡のような瞬間に立ち会うことができるとともに、映画『マリアンヌ(ALLIED)』とは国家の政治的目標である戦争に従属させられる戦争機械であった二人が「戦争ではなく、創造的な逃走線を引く」(『千のプラトー』)、国家に抗する戦争機械=恋愛機械に生成し、自分の生を生きる過酷な逃走=闘争の記録でもあったことも理解できるはずだ。
 この映画と共に生きることができた悦びにそっと涙をぬぐい、流れるエンドロールとともに本稿の筆をおくこともしたい。    

                             

クレジット

題名:マリアンヌ
原題名:ALLIED
監督:ロバート・ゼメキス
脚本:スティーヴン・ナイト
編集:ミック・オーズリー、ジェレマイア・オドリスコル
出演:ブラッド・ピットマリオン・コティヤールジャレッド・ハリスサイモン・マクバーニー、リジーキャプラン
プロデューサー:グレアム・キング、スティーヴ・スターキー、ロバート・ゼメキス
エグゼクティブプロデューサー:パトリック・マコーミック、スティーヴン・ナイト、デニス・オサリヴァン、ジャック・ラプケ、ジャクリーン・レヴィン
撮影:ドン・バージェス
衣装: ジョアンナ・ジョンストン
音楽:アラン・シルヴェストリ
製作会社:GKフィルムズ、フアフア・メディア、イメージムーバーズ
配給:パラマウント映画、東和ピクチャーズ
(2016 / アメリカ / 124分)

 

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【映画】『アカルイミライ』~そして「未来」は続く~

映画「アカルイミライ」を詳細に分析した批評文です。

アカルイミライ」というタイトルに仕掛けられた、「アカルイミライ」≠「明るい未来」という問いかけ=謎をトリガーに、この極めて野心的な傑作について詳細に読み解く論稿です。

1.「未来」について語ることは反動的である

2.入れ子の構図と紐帯

3.同一のフレームショット~君たち全部を赦す~

4.俯瞰のロングショットの廃棄~生の力能の肯定へ~

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youtu.be

未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捕らえるものなのである。未来とは他者なのだ。
                    エマニュエル・レヴィナス『時間と他者』

 この映画のタイトルはなぜ「明るい未来」ではないのであろうか。わたしたちはこの映画を現前にして「アカルイミライ」というタイトルに躓くことになるはずだ。
 この映画における「明るい未来」とはオダギリジョー浅野忠信が働くおしぼり工場の社長である笹野高史やオダギリの妹の配偶者であるはなわが体現しており、その「明るい未来」から予定調和的な意味を剥ぎ取った「アカルイミライ」というタイトルは、「カタカナで表記されるかぎり、外来的なものの外来性が、どこまでいっても保存される」(柄谷行人『日本精神分析』)ように、私たちに不意打ちをくらわす「未来の外在性」(『時間と他者』) をオダギリや浅野がこの世界に抱く疎外感とともに見事に表象しているといえるだろう。
 その疎外感とは、例えば、浅野の部屋でテレビを勝手につけてはしゃぐ笹野のバックショットとその様を冷ややかに見つめるオダギリと浅野のツーショットのクロスカット、あるいは、妹に無理やり連れて行かれたはなわの会社で棒立ちするオダギリが周囲の視線と交じることなくフロアを移動するシーンをフレームの右端から左端への横移動でとらえたショットに端的に示されている。
 本稿では「アカルイミライ」というタイトルに仕掛けられた、「アカルイミライ」≠「明るい未来」という問いかけ=謎をトリガーに、この極めて野心的な傑作『アカルイミライ』(黒沢清、2003)について思考をめぐらすこととしたい。

1.「未来」について語ることは反動的である
 この映画は、「夢の中で未来は明るかった。」と語るオダギリのナレーションが流れる中、その「明るい未来」というナラティブの内容とは対照的に揺れ動く不安定なキャメラでとらえた、彼のバストショットから始まるように、「アカルイミライ」≠「明るい未来」というタイトルに仕掛けられた問いかけ=謎を解きほぐすためには、この映画における「未来」をめぐる言説のシークエンスをまずは辿っていく必要があるだろう。
 職場での休憩から寝覚め、浅野に「何が見えた?」と聞かれて「忘れた」とフレームアウトするオダギリ。正社員契約のための雇用契約書を手に逡巡するオダギリに「最近、どんな夢を見る?」と聞き、「何も」との答えに「そっちを信じたほうがいいぞ」、「だから何も見ないんだ」との答えに「でも、まあそういうのが良いんじゃないの」と応答し、フレームアウトする浅野。家電のリサイクル工場で昼寝をしていたオダギリが「悪い夢でも見たの?」という藤竜也の問いかけに対して、「時々夢で未来が見えるんです。」と直前に見た夢を語る、夢のシーンを挟んだ長回しのシークエンス。これらの場面では、「未来」を語ることが周到に避けられている。あるいは夢の中においてしか「未来」は語られていない。
 一方、浅野のアパートを訪ねてきた笹野が居合わせたオダギリジョーとともに三人で食事をするシーンにおいて、「目的って言うの?なんかはっきり見えていたんだよね・・(中略)・・それが若いってことじゃないの」と昔を回想して語る笹野の発言に席を立ち、不機嫌そうに部屋を出ていくオダギリ。留置所の面会場面で「やっぱ待ってるよ、10年でも20年でも守さんのこと。それからさ、二人でやろうよ、いろんなこと。遅くないでしょ、それからでも。」と語るオダギリに対して、「未来のことはお前が一番知っているじゃないか」と応答し、さらに強い「未来」へのオダギリの決意表明に「絶交だよ。見損なったよ」と突き放す浅野。「将来有望だと思っていますよ、この分野」と語るリサイクル店の社長に対して「くだらないですよ、こんな仕事は。」と仕事道具を投げ出して応答する藤。いずれも、「未来」を積極的に語ろうとするアクションに対して強い拒絶のリアクションが生じている。
 このように、この映画における「未来」をめぐる言説のシークエンスにおいては、「成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成されるべきなんらかの理想」(カール・マルクスドイツ・イデオロギー』)として「明るい未来」を積極的に語ることは、現在を来るべき将来としての未来から割り引いて生きることとして斥けられるのだ。内容が何であれ、わたしたちの「生き生きとした現在」が捕獲され、「明るい未来」という目的に必然的に従属させられ、「暴力的に割り引かれた現在」にすぎなくなるからだ。
「未来についての言明には、基本的に根拠がない。(中略)誰かが何かの立場で語り尽くすことはできない」(檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』)ものであろう。「未来」について語ることは「逆に前もって未来と未来のチャンスを閉じてしまい削減してしまう」(ジャック・デリダマルクスの亡霊たち』)、すなわち、「未来」について語ることは反動的なのだ。

2.入れ子の構図と紐帯
 水槽の中で泳ぐクラゲのアップショットから始まり、クラゲとクラゲをじっと見つめるオダギリを水槽の縁で分割したスプリットスクリーンのようなショット、奥行のない箱のような部屋全体=フレームの内外をオダギリと浅野が往き来する様を玄関側から捉えたショット、窓側から手前にオダギリ、奥に浅野を配置した奥行のあるショットへと移行していく、この一連のシークエンスにおいて、キャメラはフィックスされており、「オダギリが動く部屋の中にある「クラゲが泳ぐ水槽=部屋」」という入れ子の構図を浮かび上がらせている。また、水槽の中に手を入れ、クラゲに触ろうとするオダギリを慌てて浅野が止めに入る、フィックスのキャメラが水平方向に移動するパンショットは、この入れ子の構図においてオダギリはクラゲと決して交わることなく、パラレルな関係を生きる運命にあることを決定的なものにしている。
 「クラゲが泳ぐ水槽=部屋」が浅野の部屋からオダギリの部屋へと移動し、手前から奥のラインにクラゲ、オダギリ、浅野と配置され、水槽の中を泳ぐクラゲを見るオダギリを浅野があたかも見守っているようなショットとなる。続くシーンにおいて、感情を制御できずに自制が利かなくなるオダギリを浅野がコントロールするために二人の間で取り決めた、人差し指を前方に立てる「行け」と胸に拳をあてる「待て」のサインを水槽の中のクラゲに対してオダギリが繰り返すことにより、「オダギリが動く部屋の中にある「クラゲが泳ぐ水槽=部屋」」が「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という入れ子の構図に変換されていることがわかるだろう。この入れ子の構図が「浅野→オダギリ」と「オダギリ→クラゲ」という二つのパラレルで俯瞰的な関係に分割され、のちに留置所の中から浅野がオダギリにクラゲの育成を指図する関係に展開されることにもなる。
 例えば、浅野が留置所に収監された後、クラゲの餌を投げながら部屋の中を苛立った様子で荒々しく動き回るオダギリとクラゲとのクロスカット、ベッドに座って動かないオダギリをクラゲが泳ぐ水槽を通して同一のフレームにおさめたショットは、「オダギリ→クラゲ」を媒介にした「浅野→オダギリ」の不安定な関係性を表象している。
 この映画のアクションが真の意味で動きだすのは、「浅野→オダギリ」と「オダギリ→クラゲ」という二つのパラレルで俯瞰的な関係の紐帯が次のように同時に断ち切れることによって正に「オダギリとクラゲ」がパラレルに並走し始めることによってである。

・「浅野↛オダギリ」:「絶交だよ」と浅野に拒絶されるオダギリ
・「オダギリ↛クラゲ」:オダギリに水槽を横転させられ床下に逃げるクラゲ

 この「オダギリとクラゲ」のパラレルな並走が既に始まっているにもかかわらず、オダギリはこの紐帯が断ち切れていることに未だ気づいていない。クラゲのいない床下を映すオダギリの俯瞰的な主観ショットは、藤の営む家電リサイクル工場にクラゲの餌の養育装置を持ち込み、川に餌を撒くという垂直的な落下運動によって、「オダギリ→クラゲ」という縦の紐帯を想像的に回復しようとさえするだろう。
 ここで、わたしたちはあの、謎めいた「行け」と「待て」のサインをもう一度思い起こしてみよう。浅野がクラゲをオダギリに託し、「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という入れ子の構図を作ったことが、「待て」のサインそのものでもあったのだ。そして、オダギリがこの紐帯の切断=「行け」のサインを身体のレベルで認識するためには、浅野の自殺(「浅野→オダギリ」の切断の徹底)とともに、クラゲの餌の養育装置の破壊(「オダギリ→クラゲ」の切断の徹底)が必要でもあったのであろう。
 陽光に照らされながら川いっぱいに広がり、海へと逃げ出すクラゲの縦長の大群と川沿いの河川敷を並走して追いかける藤、オダギリの俯瞰のロングショットのシークエンス以降、真にパラレルな関係となった「オダギリとクラゲ」は画面から姿を消すことになる。「オダギリとクラゲ」は「行け」のサインに忠実に従ったのだ。

3.同一のフレームショット~君たち全部を赦す~
 この映画の前半部において、「笹野⇔オダギリ/浅野」の雇用・被雇用、「藤⇔浅野/加瀬亮」の親子、という二つのコンフリクト(対立、軋轢)な関係をみることができる。そして、これら二つのコンフリクトな関係において生じる懸隔は様々なシークエンスで確認できるのだが、その懸隔を埋め、捕獲しようとさえする年長者のアクション(例えば、笹野がオダギリに流行のCDをしつこくねだり、オダギリからCD を奪い取るように受け取る笹野の手のアクション、留置所の鉄格子を挟んだ藤からの世間話(「毎日何をやってる?」)への浅野の応答(「死刑のこと」)にゆっくりとうつむき陰影を帯びていく藤の横顔のアクションなど)はいずれも、説話論的な悲劇(笹野の殺害や浅野の自殺)に終わるしかないだろう。
 一方、息子の友人といった以外は特筆すべき関係もなかった「藤⇔オダギリ」はどうであろう。火葬場の煙突のクローズアップから始まり、浅野の骨壺をぶら下げて歩く藤がオダギリとすれ違う俯瞰ショットを経由して、切り返しショット、ベンチで語る固定ショットへと続く彼らが初めて出会う一連のシークエンスは二人の間に前述の二つのコンフリクトな関係にみられるような懸隔は端から存在しないように思える。
 しかし、こうした二人の親和的な関係に介入してくるのがクラゲである。「信用してないですね、俺の話」とオダギリが切り出してクラゲの真偽を話す自動車の運転席/助手席のスプリットスクリーンは、二人の関係のズレを表象している。クラゲとはオダギリにとって「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という入れ子の構図の核であり、浅野との想像的な紐帯のモノとしての証でもあるのだが、藤にとっては「どうやって興味を持てばよいかわからない」ものだからである。
 クラゲの餌の養育装置が壊れていることに憤り、手提げ金庫をこじ開けようとするオダギリを制止して投げ飛ばした藤が「人にはね、許されることと許されないことがあるんだよ」「クラゲ見たよ、確かに。きれいだった。でもそれでどうなる。何が変わるの?」と諭し、「ほっとけよ」という応答に対して「ほっとけないんだよ・・・(中略)・・・どうしてこの現実をみようとしないんだよ・・・(中略)・・・この現実はな、私の現実でもあるんだよ」と激怒して叱責する場面。この4分近い長回しのショットから、逃げ出すオダギリを追いかけるためにリサイクル工場を飛び出した藤が橋の上でへたり込むまでを俯瞰のロングショットに始まり、奥行のあるフィックスショットからクローズアップへとシームレスにとらえた一連のシークエンスは二人の懸隔をくっきりと浮き彫りにさせるアクションの連鎖となっている。
 ここでの藤が「薄汚くて不潔」と呼ぶ「現実」とは、おしぼり工場の社長である笹野や正規労働者であるはなわが体現していた「明るい未来」の陰部であり、「目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる」(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』)もの、すなわち見せかけの資本主義が抑圧する「リアル」なものでもあろう。
 この二人が出会い、対立し、その懸隔を埋めていこうとするプロセスは、この映画の前半部における、二つのコンフリクトな関係を刷新していくプロセスとしてもとらえることができる。それは、彼らが同一のフレームに収まるショットを考察することで明らかになるはずだ。
 まずは、「笹野⇔オダギリ/浅野」という雇用・被雇用の関係において三人が浅野の部屋で食事をするシーンのポジションを確認してみると、経営者の笹野をキャメラの中心に据えて、脇に非正規従業員の二人を配置しており、階級的な対立を内包したバーティカルな縦の関係を見て取ることができ、おしぼり工場でもオダギリと浅野が夫々、機械に向き合い作業するシーンはあっても、三人が協働作業する同一のフレームショットが撮られることは決してない。それに対して、「藤⇔オダギリ」はベンチで浅野のことを語り合うことから始まり、廃品を回収する、作業机で修理技術を教える/教わる、コーヒーを飲むなど常にサイドバイサイドのパラレルな関係にあり、藤の家電リサイクル工場がアソシエーション的な「協同組合工場」のように立ち現われ、おしぼり工場にあったような資本家-労働者、経営者-非正規従業員という縦のバーティカルな関係性はここでは廃棄されている。
 次に「藤⇔浅野/加瀬」という親子関係を、お互いが直接対峙するポジションによって確認してみよう。藤が下を向き重くて黒い画面に包まれた留置所で鉄格子を挟んで向き合うことしかできなかった「藤⇔浅野」が、「藤⇔オダギリ」では修理するテレビを挟んでお互いがポジションを入れ替え、文字通り同じ釜の飯を食する関係として再帰していることがわかる。また、オープンカフェでの噛み合わない会話から足早に席を立つ加瀬を藤が追いかけて両腕を掴んで向き合うものの「少しはさあ、自分で考えなよ」と突き離される「藤⇔加瀬」が、「藤⇔オダギリ」では、はなわの会社に侵入して逃げ帰ってきたオダギリに「赦して」と両手で抱きつかれた藤が、両腕で抱き直して「私は君を赦す」、両腕を掴んで「私は君を赦せる」、再度、両腕で抱き直して「私は君たち全部を赦す」と三度も「赦す」という言葉を口にしながら抱擁することによって懸隔が接合され、「藤⇔浅野/加瀬」にあったコンフリクトな関係を含めて刷新されているのだ。(なお、オダギリがクラゲを掴んで失神する藤を川から救い上げ背後から抱きしめることはこの抱擁への応答であろう)ここにおいて抱擁することとは、懸隔を接合すると共に「現在そのもののただなかに孕まれている未来への傾向を、現在のなかへ分け入って摑み取る」(アントニオ・ネグリ『さらば、”近代民主主義”』)身振りともなっているだろう。そして、この3分弱の長回しは、「生き生きとした現在」を捕獲するのではなく、力強く解き放つ、この映画における最もエモーショナルなシークエンスとなっている。

4.俯瞰のロングショットの廃棄~生の力能の肯定へ~
 この映画が「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という俯瞰的な関係の入れ子の構図を有しているという点は既に確認してきたのだが、二重の縦の紐帯が断ち切られた後は、逆に俯瞰のロングショットが多用されることにもなる。
例えば、浅野の火葬直後に初めて出会ったオダギリと藤がそのまま車で藤の家電リサイクル工場に到着して下りるシーン、橋の上でクラゲの餌を川に撒くオダギリを少し離れた場所から藤が見つめるシーン、叱責して家電リサイクル工場から逃げ出したオダギリを藤が追いかけるシーンなどが挙げられるが、それは、工場の廃屋のタンクや用水路、海へと続く川など地下を流れる水脈を泳いでいくクラゲを捉えるために欠かせないショットであることとも無関係ではない。
 この俯瞰のロングショットを考察してみると、このショットが人間の持ちうる視点ではなく、いわば、超越(論)的な視点であることがわかる。これを「第三者の審級」(大澤真幸)と考えてみよう。「第三者の審級」とは、「神」や「世間」のように共同体に秩序をもたらす「規範の妥当性を保証し、規範に拘束力を与えている」(大澤真幸『自由という牢獄』)超越(論)的な他者である。「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という俯瞰的な入れ子の構図が崩れた後、「第三者の審級」である俯瞰のロングショットが逆にこの映画の説話論的持続をサスペンドすることになるわけである。
 藤のリサイクル工場を飛び出したオダギリが仲間だけで会話のできる点滅するインカムを付けて若者たちと動物の群れのように道路を歩く俯瞰のロングショットは、続く、大きな用水路を流れて発光するクラゲの群れを橋の上から眺める藤の後方からの主観的な俯瞰ショットとシンクロしており、「オダギリとクラゲ」のパラレルな関係を再認することができよう。そして、重要なのはここでの藤のアクションのベクトルだ。これまで、橋の上から俯瞰して眺めていた藤が発光しながら大きな用水路を流れていくクラゲの群れの近傍へ降りて寄り添い、サムズアップした両手を高く上げて見送るクールなショットに「藤⇔クラゲ」もバーティカルな縦の関係からサイドバイサイドのパラレルな関係へと転換しているとみることができるだろう。
 また、オダギリが藤の家電リサイクル工場の屋根に上ったシークエンスにも注目してみよう。キャメラは屋根に上って遠くを眺めるオダギリに俯瞰のロングショットからフルショット、バストショットへと近接していき、彼の主観ショットへとつなげていく。屋根から降り、「あそこからじゃ何も見えませんね。そのことがわかりました」「俺、今まで何をやっていたのでしょう。行けのサインはとっくに出てたのに」と穏やかでありながらもどこか吹っ切れた表情で話し、背を向けてゆっくりと歩いていくオダギリと無言で見送る藤との切り返しショットは「第三者の審級」の廃棄を宣言し、「生き生きとした現在」をとにかく生きてみようとする、忘れがたいシーンである。「行け」のサインとは賽の投擲のように、運命を引き受けつつも、この世界を信じて「現在そのもののただなかに孕まれている未来」を掴んで賭けてみろというサインでもあるはずだ。
 4分近くに上る長回しのラストシーンにおいて、オダギリと行動を共にした若者たちがダンボールを蹴り、思い思いばらばらに歩道を歩いていくハイアングルのクレーンショットがホワイトアウトする画面とともに車道で少しずつ列を整え、徐々に正面を向いていくトラックバックへと移行する。
 ここにおいてわたしたちが深く動揺させられるのは、ホワイトアウトした画面に包摂されながら、「現在そのもののただなかに孕まれている未来」=「アカルイミライ」を己の生に引き受けるようと歩いていく若者たちが見つめるキャメラの彼方にあるものを、誰も予見することができないためであろう。海へと逃げ出したクラゲの大群にパラレルに並走しつつ、列を整えながら歩いていく若者たちに「生き生きとした現在」の捕獲に抗する、能動的で自発的な生の力能を認めることができないであろうか。そこでは、俯瞰のロングショットのようなバーティカルな縦の関係はもはや必要とされていないのだ。

 

クレジット

題名:アカルイミライ
監督・脚本・編集:黒沢清
出演:オダギリジョー浅野忠信藤竜也笹野高史、白石マル美、りょう、加瀬亮小山田サユリはなわ森下能幸佐藤佐吉、三島ゆたか、松山ケンイチ、ユージ(永井有司)
プロデューサー:浅井隆、野下はるみ、岩瀬貞行
エグゼクティブプロデューサー:浅井隆、小田原雅文、酒匂暢彦、高原建二
アソシエイトプロデューサー:藤本款
撮影:柴主高秀
美術:原田恭明
衣装:北村道子
音楽:パシフィック231蓮実重臣三宅剛正
主題歌:THE BACK HORN 『未来』
アカルイミライ製作委員会:アップリンク、デジタルサイト、クロックワークス読売テレビ
(2002 / 日本 / 115分)

 

アカルイミライ 通常版 [DVD]

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アカルイミライ 特別版 [DVD]

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アカルイミライ

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【映画】『少女邂逅』~近づきすぎてはいけない、距離をめぐる彼女たちの闘争宣言~

映画「少女邂逅」を詳細に分析した批評文です。

出会うことをあらかじめ運命づけられたかのように巡り合った少女たちの「距離」をめぐる映画であることに着目し、彼女たちの闘争宣言として詳細に読み解く論稿です。

 1.閉じ込められた狭い世界

2.距離をめぐって~近づきすぎてはいけない~

3.彼女たちの闘争宣言

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鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。 卵は世界だ。 生まれようと欲するものは、 一つの世界を破壊しなければならない。

                         ヘルマン・ヘッセデミアン

 

 この映画においては、冒頭の授業シーンで教師が体にピアスやタトゥーを入れることを変身願望として説き、カフカの『変身』が紬の父親の登場や紬が倒れるシーンなど物語の結節点となるような場面において取り上げられているように「変身」が大きなモチーフとなっている。生態を変身させる蚕が物語を動かす役割を担っており、髪型をポニーテールに変えたミユリが会話をし、周囲との関係を変化させ、変身していく成長譚であるともいえる。

 しかし、本稿ではもうひとつの主題として「距離」をめぐる映画であることに着目したい。出会うことをあらかじめ運命づけられていたかのように巡り合った少女たちの「距離」の取り方をキャメラは執拗に追いかけていくのだ。「少女邂逅」とは、「距離」をめぐる彼女たちの闘争宣言の映画としても受け止めることができるだろう。

1.閉じ込められた狭い世界

 森の中に閉じ込められたかのように、ミユリが同級生たちにいじめられた後の俯瞰ショットではじまるこの映画は、白色の光に包まれた画調を帯びており、この街そのものが繭の中に閉じ込められた狭い世界であることを表象している。

 「いつまでこんな狭いとこいるの。かわいそうに。私がお前にもっと広い世界、見せてあげるよ。」とつぶやいて蚕を小箱から取り出して投げる、あるいは「やったじゃん。こんな狭いとこおさらばできるね。」とこの街を出るミユリを見送るいじめっ子の清水。電話ボックスの中から学校に戻ろうとして「窮屈で息が詰まる。いいんじゃない、箱の中にいないといけないルールなんてないし。」、あるいはミユリの髪型をポニーテールに変えさせた後、「きっと世界はもっと広いよ。」とミユリに語りかける紬。彼女たちはこの街=繭の中に閉じ込められた狭い世界の強度を痛いほど認識している。

 それは、小箱に入れた蚕を覗くミユリのショットやいじめっ子の同級生たちにスカートを捲り上げられ、繭に閉じ込められたように上半身を覆われて縛られたミユリを解放する紬の主観ショットがこの世界の輪郭を明瞭に浮かび上がらせ、繭の中に閉じ込められた狭さの表象が何度も反復されるからなのだ。

 しかし、この街=繭の中に閉じ込められた狭い世界に強烈な違和を感じながらも自足し、その強度に自覚的ではなかったミユリはこの街=狭い世界を抜け出すためにリストカットを三度も試みるがいずれも果たすことはできない。この街=狭い世界からの逃走のためには紬との「邂逅」と「別離」が必要であったからだ。

2.距離をめぐって~近づきすぎてはいけない~

 ミユリが母親から進学先について家の近くの公立大学を勧められる夕食のシーンが正面からの切り返しショットを挟まず、二人の距離の遠さを浮き彫りにするサイドからのショットのみで処理されていることは、この映画においてはキャメラのポジションが距離を表象するうえで極めて重要であることを認識させてくれる。

 自動販売機前の狭いスペースでたむろする同級生たちを覗きこむミユリの俯瞰的な主観ショットに不意打ちをくらわせるように、「行くよ」と紬がミユリの手を取って走っていく後姿を手持ちキャメラが追いかけ、階段をかけ降りてきた二人がそのまま校舎の陰を抜けると二人乗りの自転車で遠ざかっていく。この2カットの長回しは二人の距離が近づいていく様をダイナミックに表現している。

 雨の中の電話ボックスでの二人の会話は、この町=狭い世界を表象させる、公衆電話を挟んだ二人の俯瞰ショットではじまる。同時に、二人がアップショットで同一画面に納められていることからも、その近接性を確認することができるが、「近づいたら、消えちゃうんじゃないか」と話すミユリが距離の大切さにどこまでも自覚的であることは、二人の関係が正面からの切り返しショットではなく、フレームの外に視線を向ける切り返しやサイドからのショットでとらえられていることからもわかるだろう。電話ボックスを出ていく紬の後姿をミユリが追いかけるシーンがガラスへの反射を通して表現されていることもいまだ安定しない二人の関係を物語っている。

 ミユリが髪型を変えるまでは、正面の切り返しショットは画面を分割したスプリットスクリーンで、ミユリのiPhoneのフレームを通してのみ確認できるだけである。また、このスプリットスクリーンはiPhoneのフレームで切り取られた世界の鮮やかさと白色の光に包まれたこの街=繭の中に閉じ込められた狭い世界とのコントラストを際立たせている。

 ミユリの髪型をポニーテールに変えさせた後、「こんな狭いところ窮屈で息が詰まるよ。早く逃げよう。」と紬がミユリに逃走を呼びかけ、キャメラは初めて対峙する二人を正面からの切り返しショットでとらえる。そして、ミユリの髪型の変更=変身以降、ミユリの部屋や本屋で二人がサイドに立って一緒に沖縄の本を読むシーンなどアップショットで同一画面におさめた、二人の親密性を示すショットが多くなっていく。

 喫茶店で対座する二人をサイドからの長回しのトラックアップでとらえ、「みんなと同じ人生と自分で選んだ人生、君は?」と紬がミユリに問いかけ、沖縄旅行という二人だけの秘密の約束をして小指を絡めるショットは二人が最も接近する瞬間であり、紬にとっては「脱領土化」(ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』)にむけての宣言でもあろう。しかし、そこに突然、父親が登場し、二人を上から見下ろした時のミユリと紬のアップショットの小刻みなスイッチングや紬が主体的/従属的に父親に従ってミユリから離れていくシーンはこの父親による監視に晒され、その権力の枠内に吸い上げられる=「超コード化」(『アンチ・オイディプス』)を示唆しており、今後の二人の距離が徐々に遠くなることをも予感させている。

 これ以降、複数の友達と集まって話す場面でのミユリと紬が間に一人を挟んで座るシーン、教室の窓際のカーテンに繭のように包まれて紬に口紅を塗り直されたミユリが一人取り残される、あるいはファーストフード店で友達と恋愛話をするミユリとその外で男子と話す紬を同一画面にとらえたショットなど二人の微妙な距離を感じさせるシーンが徐々に増えていく。

 仕切りに区切られた箱の中にいる蚕をみて、狭いからと仕切りを取り除こうとするミユリに対して、「これがないと近すぎてお互いの糸が絡まっちまうんだよ。」と言って制止する教師。「近すぎるとダメになっちゃうんですか?」と応答するミユリ。近すぎることは逆に互いの関係を不自由なものにすること、適度な距離が必要であることを示唆する重要なシーンである。痛覚がない蚕を羨望するミユリと教師とが無言で向き合う場面を部屋のドアを挟んで同一の画面に収めるショットはミユリが距離の大切さを再び取り戻す契機となっているのであろう。

 階段の手摺や図書館の本棚を挟んだミユリと紬の会話は離れていく二人の距離を表しており、いずれも二人を同一のアップショットにおさめることを禁じている。決定的なのは保健室でのミユリと紬との蚕をめぐる会話を、窓の外を向いてベッドに座る紬の後ろ姿と紬の肩越しのミユリとの切り返しショットでとらえているシーンである。続く紬とミユリを同一画面でとらえたフルショットは左右に分かれた二人の距離の広がりを端的に明らかにしているだろう。沖縄に向かう電車の中で車窓を眺める紬と車内を向くミユリは同一画面のアップショットでありながら、互いの方向はすれ違っているのも印象的である。

 また、二人が初めて接近するのが自転車であったように、自転車も二人の距離を端的に表している。たとえば、夜に自転車を二人乗りするワンカットの長回しのショットは二人の親密さを、ミユリの夢の中での自転車を1人で乗る紬の後ろ姿と歩いて追いかけるミユリとの切り返しショットは遠くなる二人の関係を。更に、いじめっ子の清水を後ろに乗せてミユリが自転車を運転するシーンをロングのパンショットで捉えた場面があるが、紬→ミユリ、ミユリ→清水へとポジションが変換され、説話論的な転換が生じていることがわかる。

3.彼女たちの闘争宣言

 紬の肌から出ている糸は外部を覆う繭を形作るとともに、外部へと開かれた逃走線でもある。この糸を辿り、左の前腕をカッターで切って糸を引き出す紬をミユリが目撃するシーンはミユリのクローズアップとミユリの主観ショットでもある紬のサイドからのショット、紬の主観ショットである血のにじむ前腕のアップショットでモンタージュされ、外部に出るということは、傷つき、痛みを伴うものであることを教えてくれる。

 ミユリが駅のベンチで眠る紬の太ももの傷跡から糸を引っ張り立ち切るのは、この世界を閉じ込め、覆う繭を突き破ろうとする外部への逃走=闘争の強い意志であるとともに、絡まった二人の関係を断ち切り、独り立ちするためのアクションでもあろう。糸を断ち切る音とともに画面が暗転し、一人ベンチに残された紬のロングショットから教師や父親に捕捉されるシークエンスは紬が「再領土化」(『アンチ・オイディプス』)される過程と重なる。一方、倒れた紬がいるはずの保健室のドアを前にして立ち去るミユリのショットは紬との絶対的な距離の存在を示し、ポニーテールをほどいたミユリは大学受験という「コード」に従いつつも、教師や母親からの「再領土化」に秘かに抵抗し、逃走線を準備するのだ。

 理科の実験室での二人の横顔の小刻みなクロスカットに続く、紬が繭を茹でるビーカーを手で払いのける行為が、「脱領土化」に向けた戦線布告であるならば、大学進学で東京に向かう電車の中で、ミユリがリストカットではなく、紬がそうしたように左の前腕をカッターで切って血を流す行為はこの街=繭の中に閉じ込められた狭い世界の外へと出ようとする闘争宣言であり、絶対的な「脱コード化」に向けての強い意志にほかならない。

クレジット

題名:少女邂逅
監督・脚本・編集:枝優花
出演:保紫萌香、モトーラ世理奈、土山茜、秋葉美希
ラインプロデューサー:jon
アソシエイトプロデューサー:小峰克彦
撮影:平見優子
美術:すぎやまたくや
衣装:松田稜平
音楽:水本夏絵
主題歌:水本夏絵
(2017 / 日本 / 101分)