cinéma et nous~映画批評~

個別の作品の映画批評を中心に記事を書いています。各作品の批評と分析は、その映像の表層にできる限り潜行し、物語と映像が交差するポイントからその映像そのものが突きつける潜勢力としての内的な体系、いわば「その可能性の中心」を見ることを試みています。取り上げた映画のご鑑賞のお友に是非ご一読ください。

【映画】『アカルイミライ』~そして「未来」は続く~

映画「アカルイミライ」を詳細に分析した批評文です。

アカルイミライ」というタイトルに仕掛けられた、「アカルイミライ」≠「明るい未来」という問いかけ=謎をトリガーに、この極めて野心的な傑作について詳細に読み解く論稿です。

1.「未来」について語ることは反動的である

2.入れ子の構図と紐帯

3.同一のフレームショット~君たち全部を赦す~

4.俯瞰のロングショットの廃棄~生の力能の肯定へ~

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未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捕らえるものなのである。未来とは他者なのだ。
                    エマニュエル・レヴィナス『時間と他者』

 この映画のタイトルはなぜ「明るい未来」ではないのであろうか。わたしたちはこの映画を現前にして「アカルイミライ」というタイトルに躓くことになるはずだ。
 この映画における「明るい未来」とはオダギリジョー浅野忠信が働くおしぼり工場の社長である笹野高史やオダギリの妹の配偶者であるはなわが体現しており、その「明るい未来」から予定調和的な意味を剥ぎ取った「アカルイミライ」というタイトルは、「カタカナで表記されるかぎり、外来的なものの外来性が、どこまでいっても保存される」(柄谷行人『日本精神分析』)ように、私たちに不意打ちをくらわす「未来の外在性」(『時間と他者』) をオダギリや浅野がこの世界に抱く疎外感とともに見事に表象しているといえるだろう。
 その疎外感とは、例えば、浅野の部屋でテレビを勝手につけてはしゃぐ笹野のバックショットとその様を冷ややかに見つめるオダギリと浅野のツーショットのクロスカット、あるいは、妹に無理やり連れて行かれたはなわの会社で棒立ちするオダギリが周囲の視線と交じることなくフロアを移動するシーンをフレームの右端から左端への横移動でとらえたショットに端的に示されている。
 本稿では「アカルイミライ」というタイトルに仕掛けられた、「アカルイミライ」≠「明るい未来」という問いかけ=謎をトリガーに、この極めて野心的な傑作『アカルイミライ』(黒沢清、2003)について思考をめぐらすこととしたい。

1.「未来」について語ることは反動的である
 この映画は、「夢の中で未来は明るかった。」と語るオダギリのナレーションが流れる中、その「明るい未来」というナラティブの内容とは対照的に揺れ動く不安定なキャメラでとらえた、彼のバストショットから始まるように、「アカルイミライ」≠「明るい未来」というタイトルに仕掛けられた問いかけ=謎を解きほぐすためには、この映画における「未来」をめぐる言説のシークエンスをまずは辿っていく必要があるだろう。
 職場での休憩から寝覚め、浅野に「何が見えた?」と聞かれて「忘れた」とフレームアウトするオダギリ。正社員契約のための雇用契約書を手に逡巡するオダギリに「最近、どんな夢を見る?」と聞き、「何も」との答えに「そっちを信じたほうがいいぞ」、「だから何も見ないんだ」との答えに「でも、まあそういうのが良いんじゃないの」と応答し、フレームアウトする浅野。家電のリサイクル工場で昼寝をしていたオダギリが「悪い夢でも見たの?」という藤竜也の問いかけに対して、「時々夢で未来が見えるんです。」と直前に見た夢を語る、夢のシーンを挟んだ長回しのシークエンス。これらの場面では、「未来」を語ることが周到に避けられている。あるいは夢の中においてしか「未来」は語られていない。
 一方、浅野のアパートを訪ねてきた笹野が居合わせたオダギリジョーとともに三人で食事をするシーンにおいて、「目的って言うの?なんかはっきり見えていたんだよね・・(中略)・・それが若いってことじゃないの」と昔を回想して語る笹野の発言に席を立ち、不機嫌そうに部屋を出ていくオダギリ。留置所の面会場面で「やっぱ待ってるよ、10年でも20年でも守さんのこと。それからさ、二人でやろうよ、いろんなこと。遅くないでしょ、それからでも。」と語るオダギリに対して、「未来のことはお前が一番知っているじゃないか」と応答し、さらに強い「未来」へのオダギリの決意表明に「絶交だよ。見損なったよ」と突き放す浅野。「将来有望だと思っていますよ、この分野」と語るリサイクル店の社長に対して「くだらないですよ、こんな仕事は。」と仕事道具を投げ出して応答する藤。いずれも、「未来」を積極的に語ろうとするアクションに対して強い拒絶のリアクションが生じている。
 このように、この映画における「未来」をめぐる言説のシークエンスにおいては、「成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成されるべきなんらかの理想」(カール・マルクスドイツ・イデオロギー』)として「明るい未来」を積極的に語ることは、現在を来るべき将来としての未来から割り引いて生きることとして斥けられるのだ。内容が何であれ、わたしたちの「生き生きとした現在」が捕獲され、「明るい未来」という目的に必然的に従属させられ、「暴力的に割り引かれた現在」にすぎなくなるからだ。
「未来についての言明には、基本的に根拠がない。(中略)誰かが何かの立場で語り尽くすことはできない」(檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』)ものであろう。「未来」について語ることは「逆に前もって未来と未来のチャンスを閉じてしまい削減してしまう」(ジャック・デリダマルクスの亡霊たち』)、すなわち、「未来」について語ることは反動的なのだ。

2.入れ子の構図と紐帯
 水槽の中で泳ぐクラゲのアップショットから始まり、クラゲとクラゲをじっと見つめるオダギリを水槽の縁で分割したスプリットスクリーンのようなショット、奥行のない箱のような部屋全体=フレームの内外をオダギリと浅野が往き来する様を玄関側から捉えたショット、窓側から手前にオダギリ、奥に浅野を配置した奥行のあるショットへと移行していく、この一連のシークエンスにおいて、キャメラはフィックスされており、「オダギリが動く部屋の中にある「クラゲが泳ぐ水槽=部屋」」という入れ子の構図を浮かび上がらせている。また、水槽の中に手を入れ、クラゲに触ろうとするオダギリを慌てて浅野が止めに入る、フィックスのキャメラが水平方向に移動するパンショットは、この入れ子の構図においてオダギリはクラゲと決して交わることなく、パラレルな関係を生きる運命にあることを決定的なものにしている。
 「クラゲが泳ぐ水槽=部屋」が浅野の部屋からオダギリの部屋へと移動し、手前から奥のラインにクラゲ、オダギリ、浅野と配置され、水槽の中を泳ぐクラゲを見るオダギリを浅野があたかも見守っているようなショットとなる。続くシーンにおいて、感情を制御できずに自制が利かなくなるオダギリを浅野がコントロールするために二人の間で取り決めた、人差し指を前方に立てる「行け」と胸に拳をあてる「待て」のサインを水槽の中のクラゲに対してオダギリが繰り返すことにより、「オダギリが動く部屋の中にある「クラゲが泳ぐ水槽=部屋」」が「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という入れ子の構図に変換されていることがわかるだろう。この入れ子の構図が「浅野→オダギリ」と「オダギリ→クラゲ」という二つのパラレルで俯瞰的な関係に分割され、のちに留置所の中から浅野がオダギリにクラゲの育成を指図する関係に展開されることにもなる。
 例えば、浅野が留置所に収監された後、クラゲの餌を投げながら部屋の中を苛立った様子で荒々しく動き回るオダギリとクラゲとのクロスカット、ベッドに座って動かないオダギリをクラゲが泳ぐ水槽を通して同一のフレームにおさめたショットは、「オダギリ→クラゲ」を媒介にした「浅野→オダギリ」の不安定な関係性を表象している。
 この映画のアクションが真の意味で動きだすのは、「浅野→オダギリ」と「オダギリ→クラゲ」という二つのパラレルで俯瞰的な関係の紐帯が次のように同時に断ち切れることによって正に「オダギリとクラゲ」がパラレルに並走し始めることによってである。

・「浅野↛オダギリ」:「絶交だよ」と浅野に拒絶されるオダギリ
・「オダギリ↛クラゲ」:オダギリに水槽を横転させられ床下に逃げるクラゲ

 この「オダギリとクラゲ」のパラレルな並走が既に始まっているにもかかわらず、オダギリはこの紐帯が断ち切れていることに未だ気づいていない。クラゲのいない床下を映すオダギリの俯瞰的な主観ショットは、藤の営む家電リサイクル工場にクラゲの餌の養育装置を持ち込み、川に餌を撒くという垂直的な落下運動によって、「オダギリ→クラゲ」という縦の紐帯を想像的に回復しようとさえするだろう。
 ここで、わたしたちはあの、謎めいた「行け」と「待て」のサインをもう一度思い起こしてみよう。浅野がクラゲをオダギリに託し、「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という入れ子の構図を作ったことが、「待て」のサインそのものでもあったのだ。そして、オダギリがこの紐帯の切断=「行け」のサインを身体のレベルで認識するためには、浅野の自殺(「浅野→オダギリ」の切断の徹底)とともに、クラゲの餌の養育装置の破壊(「オダギリ→クラゲ」の切断の徹底)が必要でもあったのであろう。
 陽光に照らされながら川いっぱいに広がり、海へと逃げ出すクラゲの縦長の大群と川沿いの河川敷を並走して追いかける藤、オダギリの俯瞰のロングショットのシークエンス以降、真にパラレルな関係となった「オダギリとクラゲ」は画面から姿を消すことになる。「オダギリとクラゲ」は「行け」のサインに忠実に従ったのだ。

3.同一のフレームショット~君たち全部を赦す~
 この映画の前半部において、「笹野⇔オダギリ/浅野」の雇用・被雇用、「藤⇔浅野/加瀬亮」の親子、という二つのコンフリクト(対立、軋轢)な関係をみることができる。そして、これら二つのコンフリクトな関係において生じる懸隔は様々なシークエンスで確認できるのだが、その懸隔を埋め、捕獲しようとさえする年長者のアクション(例えば、笹野がオダギリに流行のCDをしつこくねだり、オダギリからCD を奪い取るように受け取る笹野の手のアクション、留置所の鉄格子を挟んだ藤からの世間話(「毎日何をやってる?」)への浅野の応答(「死刑のこと」)にゆっくりとうつむき陰影を帯びていく藤の横顔のアクションなど)はいずれも、説話論的な悲劇(笹野の殺害や浅野の自殺)に終わるしかないだろう。
 一方、息子の友人といった以外は特筆すべき関係もなかった「藤⇔オダギリ」はどうであろう。火葬場の煙突のクローズアップから始まり、浅野の骨壺をぶら下げて歩く藤がオダギリとすれ違う俯瞰ショットを経由して、切り返しショット、ベンチで語る固定ショットへと続く彼らが初めて出会う一連のシークエンスは二人の間に前述の二つのコンフリクトな関係にみられるような懸隔は端から存在しないように思える。
 しかし、こうした二人の親和的な関係に介入してくるのがクラゲである。「信用してないですね、俺の話」とオダギリが切り出してクラゲの真偽を話す自動車の運転席/助手席のスプリットスクリーンは、二人の関係のズレを表象している。クラゲとはオダギリにとって「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という入れ子の構図の核であり、浅野との想像的な紐帯のモノとしての証でもあるのだが、藤にとっては「どうやって興味を持てばよいかわからない」ものだからである。
 クラゲの餌の養育装置が壊れていることに憤り、手提げ金庫をこじ開けようとするオダギリを制止して投げ飛ばした藤が「人にはね、許されることと許されないことがあるんだよ」「クラゲ見たよ、確かに。きれいだった。でもそれでどうなる。何が変わるの?」と諭し、「ほっとけよ」という応答に対して「ほっとけないんだよ・・・(中略)・・・どうしてこの現実をみようとしないんだよ・・・(中略)・・・この現実はな、私の現実でもあるんだよ」と激怒して叱責する場面。この4分近い長回しのショットから、逃げ出すオダギリを追いかけるためにリサイクル工場を飛び出した藤が橋の上でへたり込むまでを俯瞰のロングショットに始まり、奥行のあるフィックスショットからクローズアップへとシームレスにとらえた一連のシークエンスは二人の懸隔をくっきりと浮き彫りにさせるアクションの連鎖となっている。
 ここでの藤が「薄汚くて不潔」と呼ぶ「現実」とは、おしぼり工場の社長である笹野や正規労働者であるはなわが体現していた「明るい未来」の陰部であり、「目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる」(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』)もの、すなわち見せかけの資本主義が抑圧する「リアル」なものでもあろう。
 この二人が出会い、対立し、その懸隔を埋めていこうとするプロセスは、この映画の前半部における、二つのコンフリクトな関係を刷新していくプロセスとしてもとらえることができる。それは、彼らが同一のフレームに収まるショットを考察することで明らかになるはずだ。
 まずは、「笹野⇔オダギリ/浅野」という雇用・被雇用の関係において三人が浅野の部屋で食事をするシーンのポジションを確認してみると、経営者の笹野をキャメラの中心に据えて、脇に非正規従業員の二人を配置しており、階級的な対立を内包したバーティカルな縦の関係を見て取ることができ、おしぼり工場でもオダギリと浅野が夫々、機械に向き合い作業するシーンはあっても、三人が協働作業する同一のフレームショットが撮られることは決してない。それに対して、「藤⇔オダギリ」はベンチで浅野のことを語り合うことから始まり、廃品を回収する、作業机で修理技術を教える/教わる、コーヒーを飲むなど常にサイドバイサイドのパラレルな関係にあり、藤の家電リサイクル工場がアソシエーション的な「協同組合工場」のように立ち現われ、おしぼり工場にあったような資本家-労働者、経営者-非正規従業員という縦のバーティカルな関係性はここでは廃棄されている。
 次に「藤⇔浅野/加瀬」という親子関係を、お互いが直接対峙するポジションによって確認してみよう。藤が下を向き重くて黒い画面に包まれた留置所で鉄格子を挟んで向き合うことしかできなかった「藤⇔浅野」が、「藤⇔オダギリ」では修理するテレビを挟んでお互いがポジションを入れ替え、文字通り同じ釜の飯を食する関係として再帰していることがわかる。また、オープンカフェでの噛み合わない会話から足早に席を立つ加瀬を藤が追いかけて両腕を掴んで向き合うものの「少しはさあ、自分で考えなよ」と突き離される「藤⇔加瀬」が、「藤⇔オダギリ」では、はなわの会社に侵入して逃げ帰ってきたオダギリに「赦して」と両手で抱きつかれた藤が、両腕で抱き直して「私は君を赦す」、両腕を掴んで「私は君を赦せる」、再度、両腕で抱き直して「私は君たち全部を赦す」と三度も「赦す」という言葉を口にしながら抱擁することによって懸隔が接合され、「藤⇔浅野/加瀬」にあったコンフリクトな関係を含めて刷新されているのだ。(なお、オダギリがクラゲを掴んで失神する藤を川から救い上げ背後から抱きしめることはこの抱擁への応答であろう)ここにおいて抱擁することとは、懸隔を接合すると共に「現在そのもののただなかに孕まれている未来への傾向を、現在のなかへ分け入って摑み取る」(アントニオ・ネグリ『さらば、”近代民主主義”』)身振りともなっているだろう。そして、この3分弱の長回しは、「生き生きとした現在」を捕獲するのではなく、力強く解き放つ、この映画における最もエモーショナルなシークエンスとなっている。

4.俯瞰のロングショットの廃棄~生の力能の肯定へ~
 この映画が「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という俯瞰的な関係の入れ子の構図を有しているという点は既に確認してきたのだが、二重の縦の紐帯が断ち切られた後は、逆に俯瞰のロングショットが多用されることにもなる。
例えば、浅野の火葬直後に初めて出会ったオダギリと藤がそのまま車で藤の家電リサイクル工場に到着して下りるシーン、橋の上でクラゲの餌を川に撒くオダギリを少し離れた場所から藤が見つめるシーン、叱責して家電リサイクル工場から逃げ出したオダギリを藤が追いかけるシーンなどが挙げられるが、それは、工場の廃屋のタンクや用水路、海へと続く川など地下を流れる水脈を泳いでいくクラゲを捉えるために欠かせないショットであることとも無関係ではない。
 この俯瞰のロングショットを考察してみると、このショットが人間の持ちうる視点ではなく、いわば、超越(論)的な視点であることがわかる。これを「第三者の審級」(大澤真幸)と考えてみよう。「第三者の審級」とは、「神」や「世間」のように共同体に秩序をもたらす「規範の妥当性を保証し、規範に拘束力を与えている」(大澤真幸『自由という牢獄』)超越(論)的な他者である。「浅野→「オダギリ→クラゲ」」という俯瞰的な入れ子の構図が崩れた後、「第三者の審級」である俯瞰のロングショットが逆にこの映画の説話論的持続をサスペンドすることになるわけである。
 藤のリサイクル工場を飛び出したオダギリが仲間だけで会話のできる点滅するインカムを付けて若者たちと動物の群れのように道路を歩く俯瞰のロングショットは、続く、大きな用水路を流れて発光するクラゲの群れを橋の上から眺める藤の後方からの主観的な俯瞰ショットとシンクロしており、「オダギリとクラゲ」のパラレルな関係を再認することができよう。そして、重要なのはここでの藤のアクションのベクトルだ。これまで、橋の上から俯瞰して眺めていた藤が発光しながら大きな用水路を流れていくクラゲの群れの近傍へ降りて寄り添い、サムズアップした両手を高く上げて見送るクールなショットに「藤⇔クラゲ」もバーティカルな縦の関係からサイドバイサイドのパラレルな関係へと転換しているとみることができるだろう。
 また、オダギリが藤の家電リサイクル工場の屋根に上ったシークエンスにも注目してみよう。キャメラは屋根に上って遠くを眺めるオダギリに俯瞰のロングショットからフルショット、バストショットへと近接していき、彼の主観ショットへとつなげていく。屋根から降り、「あそこからじゃ何も見えませんね。そのことがわかりました」「俺、今まで何をやっていたのでしょう。行けのサインはとっくに出てたのに」と穏やかでありながらもどこか吹っ切れた表情で話し、背を向けてゆっくりと歩いていくオダギリと無言で見送る藤との切り返しショットは「第三者の審級」の廃棄を宣言し、「生き生きとした現在」をとにかく生きてみようとする、忘れがたいシーンである。「行け」のサインとは賽の投擲のように、運命を引き受けつつも、この世界を信じて「現在そのもののただなかに孕まれている未来」を掴んで賭けてみろというサインでもあるはずだ。
 4分近くに上る長回しのラストシーンにおいて、オダギリと行動を共にした若者たちがダンボールを蹴り、思い思いばらばらに歩道を歩いていくハイアングルのクレーンショットがホワイトアウトする画面とともに車道で少しずつ列を整え、徐々に正面を向いていくトラックバックへと移行する。
 ここにおいてわたしたちが深く動揺させられるのは、ホワイトアウトした画面に包摂されながら、「現在そのもののただなかに孕まれている未来」=「アカルイミライ」を己の生に引き受けるようと歩いていく若者たちが見つめるキャメラの彼方にあるものを、誰も予見することができないためであろう。海へと逃げ出したクラゲの大群にパラレルに並走しつつ、列を整えながら歩いていく若者たちに「生き生きとした現在」の捕獲に抗する、能動的で自発的な生の力能を認めることができないであろうか。そこでは、俯瞰のロングショットのようなバーティカルな縦の関係はもはや必要とされていないのだ。

 

クレジット

題名:アカルイミライ
監督・脚本・編集:黒沢清
出演:オダギリジョー浅野忠信藤竜也笹野高史、白石マル美、りょう、加瀬亮小山田サユリはなわ森下能幸佐藤佐吉、三島ゆたか、松山ケンイチ、ユージ(永井有司)
プロデューサー:浅井隆、野下はるみ、岩瀬貞行
エグゼクティブプロデューサー:浅井隆、小田原雅文、酒匂暢彦、高原建二
アソシエイトプロデューサー:藤本款
撮影:柴主高秀
美術:原田恭明
衣装:北村道子
音楽:パシフィック231蓮実重臣三宅剛正
主題歌:THE BACK HORN 『未来』
アカルイミライ製作委員会:アップリンク、デジタルサイト、クロックワークス読売テレビ
(2002 / 日本 / 115分)

 

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